瀬尾千秋さんのこと

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瀬尾千秋さんのこと
「米子ケヤキ通り振興会」の創設時(2006年・平成18年10月)のメンバーのお一人であり、ケヤキ通り振興会の初代事務局長として活躍された顧問・瀬尾千秋さんの告別式が7月12日に執り行われました。
気さくな方で若いメンバーにもたくさんお声かけされる姿と、また怖いもの知らずで親分肌な一面のある人でした。そして多才な方でした。

「ケヤキ通り振興会」が「米子福生大凧揚げ大会」に参加したとき、瀬尾さんの指導する凧(タコ)は必ず高く舞い上がりました。タコ糸・竹の張り方、張り具合。凧が風に乗るタイミングを見計らって、支えた人の手を放す掛け声。ロープ(糸)を引くこと、緩めることのバランス感覚は絶妙だったと思います。ケヤキ通り振興会が、2011年の初参加からMVP賞・優秀賞など多くの賞をいただいたのは瀬尾さんの指導のたまものだったと思います。

そしてゴルフ名人だったことは「夙(つと)に有名」です。聞いたところゴルフを始められて、短期間でメキメキと上達され、間もなくアマチュアゴルフ大会で優勝されたこと。鳥取県代表として国体にも参加され、そのころ重田会長と出会いがあったと聞きました。

友人として長く交流されてきた重田会長による告別式の弔辞が大きな感動を呼びました。

「・・千秋!・・おまえはわたしに嘘をついた・・・。ゴルフコンペがある日に、姿が見えないものだから
<千秋は?>と聞いた。
・・東京にいる娘さんのところに用事で出かけたらしい・・・

あとで(後程)知った。あの日、病院で手術だったと・・!
何で言ってくれなかったのだ・・何で相談してくれなかったのだ・・・」

瀬尾さんは若いころ京都で宮大工のお仕事をされていました。
その京都で映画会社「日活」のニューフェース試験に合格されたと聞きました。
1960年代、おそらく昭和35年・36年頃です。
同期に高橋英樹がいたといいます。しかし父親の反対と家業を継ぐためやむ得なく帰米されます。
瀬尾さんは歌もプロ並みでした。お酒が入ると、小林旭のナンバーを次から次へと歌われたことも忘れられません。
世が世ならテレビ、映画で大活躍だったのかも知れません。

最後に重田会長は
「さよならは 別れの言葉じゃなくて 
再び逢うまでの 遠い約束 」・・・と。

合掌(I)